イデー論としての幾何学

初期ショーペンハウアーにおけるイデー論の形成

齋藤 智志



 ショーペンハウアーの学位論文における表象論の基本構造を検討した論文の結語において筆者は、「直接表象と全体表象の相互依存という、学位論文で述べられているショーペンハウアーの表象論の基本構造によってのみでは、経験の在り様がすべて説明されてはおらず、問題が残された。そうした問題に対する解答を見い出すためには、表象論のもう一つの核であるイデー論を待たなければならない」という趣旨のことを述べた(1)。本論文は、そのイデー論を検討することで、残された問題に対するショーペンハウアーの解答がいかなるものであったかを呈示することを第一の目的とする。
ところで、ショーペンハウアーが彼独自のイデー理解に到達するにあたっては、いくつかの道が想定可能であるが、本論文ではとりわけ、ショーペンハウアーの幾何学に関する思索がイデー論生成の現場である可能性を呈示しようと思う。これが本論文の第二の目的である。
 したがって本論文は、1.直接表象と全体表象、2.プラトン的イデー、3.イデー論としての幾何学、そして4.結語、という構成になる。

1 直接表象と全体表象
 若きショーペンハウアーは、有限な我々を「あらゆる瞬間に生かし続ける永遠の真理」(N-1,10)たる無限者、神的な真なる存在者への希求をもって哲学への道を歩み始めた。いかにすればそうした存在者に至れるかが当初の関心であった。しかしやがて、カントやフィヒテを経由することにより、そうした存在者の存在自身が疑問視されてくることになる。学位論文完成の前年に書かれた、シェリングについての読書ノートの一節は、そのことを端的に示している。

 「絶対者とは、すでにその名が示す通り、消極的な概念である。つまりそれは、我々にとって何かが存在するための、あるいはむしろ認識されるための制約から独立しているような存在の概念である。それゆえ問題なのは、存在することと認識されることとの間に相違があるのか、認識できるということをいっさい除いてなお存在が残るのか、主観と客観の背後にまだ何者かが存在するのか、ということである」(N-2,309)。

 しかし、ショーペンハウアーはこの段階ではまだ、真なる存在者それ自体に至る道の可能性を放棄していない。そうした可能性をショーペンハウアーは、シェリングの知的直観の内に求めている。知的直観は自己の内奥に永遠なるものを見るとされるが、そうした思想をショーペンハウアーは「偉大にして純粋なる真理」(N-2,309)と評価している。
 だが他方、「主観と客観の背後にはまだ何者かが存在するのか」という問いに対してショーペンハウアーは、同時にまったく逆の回答の可能性も模索している。先に引用した読書ノートと同年に書かれた草稿には次のようにある。

 「端的に存在していると考えられているあらゆる物は、それを知覚する知性がなけれ  ば、すなわちこの客観界にとっての主観がなければ、存在していると考えることはできない。というのは、(自然哲学者たちは決してはっきりとは述べていないが)存在するということは、主観にとっての客観であること、または客観にとっての主観であることにすぎないからである」(N-1,26)。

 こうしてショーペンハウアーは、表象を超越した実体的存在と意識に内在する表象存在という二つの存在理解の狭間にあって揺れ動きながら葛藤に満ちた思索を続けるが、その過程を通して徐々に前者の可能性を否定するほうへと傾いてゆく。すなわち、今の引用の最後にある「存在するということは、主観にとっての客観であること、または客観にとっての主観であることにすぎない」という規定が、まさにショーペンハウアーの表象(存在)理解として確定してゆくのである。そうした表象(存在)理解に基づいて書かれたのが、学位論文『充足根拠律の根の四側面について』(初版、一八一三年)(2)である。ここに至ってショーペンハウアーは、実体主義的存在理解との最終的な決別を果たすことになる。そこでは端的にこう述べられている。

 「「主観にとっての客観である」ということと「我々の表象である」ということとは同一  である。(…)意識から独立しており、それ自体で存在しているもの、他のものとの関係なしにそれだけで存在するものなどは、我々の客観とはなりえない」(W-7,18)。

 このように、実体的存在の独断的措定を廃し、表象を主観と客観との相互依存性とする立場は、『意志と表象としての世界』においてもそのまま受け継がれている。

 「我々は主観からも客観からも出発しないで、表象から出発した。表象は主観と客観  の両方をすでに含んでいて、両方を前提としている。というのは、客観と主観とへの分裂が、表象の最初の、最も普遍的な、そして最も本質的な形式だからである」(W-2,30)。

 そしてこの考えは、『意志と表象としての世界』冒頭の「世界は私の表象である」(W-2,3) という周知の命題に集約されることになる(3)。
 さて、以上のような表象理解に基づいた上でショーペンハウアーが描き出す表象界の基本構造は、いかなるものであるのか。それが集中的に展開されている学位論文初版第一九節・第二〇節の議論の再構成を試みることにする。
 我々が有する経験内容は、「悟性が時間と空間という異質な感性の形式を結合し共働させることによって」(W-7,22)成立する。時間と空間が共働するということは、我々の経験においては「時間が絶えず流れるにもかかわらず実体が持続し、空間が不動であるにもかかわらず実体の状態が変化する」(ebd.)ということであり、それはすなわち、一般に「客観的・実在的世界の全体」(W-7,23)と呼ばれているものに他ならない。こうした在り様の表象をショーペンハウアーは「全体表象(Gesammtvorstellung/Totalvorstellung)」(W-7,22ff.)と呼ぶ。
 一方、「主観は直接にはただ内官を通して認識する。(…)それゆえ表象が主観の意識の中に直接に現在するという点では、主観は内官の形式である時間だけに従っている。それゆえ、主観に一度に現在できるのはただ一つの明瞭な表象だけである。(…)そして、主観はこのただ一つの表象のところにとどまろうとはしない(…)。こうしてある一つの表象が消え、他の表象がそれに取って代わるということが絶えず繰り返される」(W-7,23)。こうした在り様の表象を(ショーペンハウアーはそうした言い方はしていないが、便宜上)「直接表象」と呼ぶことにする。それぞれの直接表象は、その性質上当然「個々ばらばらなものである」(ebd.)。
 それにもかかわらず個々の直接表象が有意義な連関を持った経験の対象として認識されるのは、それらが主観に残っている全体表象に結合され、その中に位置づけられることによってである。当然のことながら、このことによって全体表象のほうは、その内容を充実・変化させてゆく。以上のような、いわば「表象現実態(ein Vorgestelltwerden kat' enteleceian)」(W-7,24)と「表象可能態(ein Vorgestelltwerdenkönnen kata dunamin)」(ebd.)という二種類の表象の相互依存関係こそが、学位論文初版における表象論の基本構造である。こうしてショーペンハウアーは、意識を超越した対象としての物自体を前提せずに、経験の在り様を描き出して見せたことになる。

2 プラトン的イデー
 さて、学位論文で表象論に関する基本的な立場を確立したショーペンハウアーではあったが、同時に問題も残された(4)。第一に、なぜ直接表象が一つの明瞭な形を持った表象として在りうるのかが示されていない。例えば、なぜ木という表象は、つねに幹・枝・葉といった部分を含む統一体として表象され、反対になぜ木が根をおろしている土や梢の鳥の巣を木の一部と見なすことはないのか。第二に、全体表象と直接表象との相互依存性によって描き出されたのは、個人の意識における経験の在り様だけであり、なぜ全体表象が間主観的レベルで普遍妥当性を持ちうるのかという問題は検討されていない。そうした問題は、学位論文の段階では、「我々すべてに共通する全体表象」(W-7,77)といった言い方で素通りされている。意識を超越した物自体を想定すれば簡単に答えることのできるこうした問題を、しかし、そうせずに解決するにはどうすべきか。これがショーペンハウアーの次の問題であった。この問題を解決するためには、物自体の「機能」を果たす「表象」がなければならないはずである。そして、その解決の具体化がイデー論であった。
 ショーペンハウアーのイデー論もまた様々に曲折するが、最終的に(一八一四年)彼が到達した結論はこうであった。

 「プラトン的イデーとは本来、理性の下にあるファンタスマのことである。それは理  性が普遍性の捺印を押したファンタスマである。(…)したがってプラトン的イデーは、想像力と理性の共同の働きによって生じる」(N-1,130f.)。

 こうしたイデー理解は『意志と表象としての世界』にも継承され(「想像力と理性との共働によって可能となるプラトン的イデー」(W-2,48)という、上記草稿と同じ規定がくり返されている)、ショーペンハウアー哲学の一つの核を形成することになる。
 さて、「イデーとはファンタスマである」と言われる。ファンタスマとは何か。また、想像力とは。学位論文では以下のように述べられている。

 「かつてある表象が、直接の客観〔身体〕の仲介で直接主観に現在したとしよう。主観は後にその表象を、直接の客観の仲介によらず、意のままに、時には表象の順序や連関をも入れ換えて再現できる。私は、そのように再現されたものをファンタスマと呼び、再現する能力を想像力、あるいは構想力と呼ぶ」(W-7,27)。

 そして、こうしたファンタスマのうち、「理性が普遍性の捺印を押した」ものが、すなわち「想像力の産みだしたファンタスマのうちで、理性が普遍的な表象(原像)であると認め」、「経験される個々の対象のアイデンティティーを保証する」(5)機能を持つものが「プラトン的イデー」である。すなわち、個々の対象がそうしたものとして認識されるとは、それら対象が、何らかのイデーと似ていると認定されるということ、典型(Vorbild)であるイデーの模像(Nachbild)であると認定されるということ(Vgl.,W-2,199)、である。この意味でショーペンハウアーは、プラトン的イデーを「標準直観」とも呼んでいる(これについては、次節で詳述する)。また、イデーはファンタスマであるから、想像力により再現が可能である。つまり、直接表象とは異なり、一定の時間に拘束されない。その意味で、そしてその限りで、イデーは生成消滅を越えている、と言える。
 以上より、「イデーとは物自体である」という、学位論文以降の草稿でくり返される規定(Vgl.,N-1,150/187)における物自体という語が、いかなる意味で使われているかも明らかとなる。整理してくり返せば、イデーは、表象界の内にありながら、個々の対象の原像として機能し、かつ生成消滅を越えて安定性を保っている。こうしたイデーの存在性格こそが、「物自体」という規定の内実なのである。『意志と表象としての世界』においては、イデーにしばしば「永遠の(ewig)」という形容詞が付されているが、その語の意味するところもまた、以上より明らかであろう。

3 イデー論としての幾何学
 ショーペンハウアーが、いかなる問題意識の下でいかなるイデー理解に達したのか、それを我々は見届けた。次の課題は、ショーペンハウアーの幾何学に関する思索が、以上のようなイデー論形成の現場である可能性を呈示することである。
 ショーペンハウアーは、学位論文初版の第四〇節(第二版では第三九節)において、幾何学について論じている。そのさいショーペンハウアーの念頭にあるのは、ユークリッドの諸定理である。ショーペンハウアーは、ユークリッドの定理をユークリッドとは違った仕方で証明してみせるが、そうすることでショーペンハウアーが言わんとするのは、「幾何学の定理はいずれも直観に還元されなければならず、それゆえその証明は、直観が担っている位置関係を明瞭に際立たせるというにすぎないのであり、それ以上のことは何もできない」(W-7,62)ということである。
 さて、我々のここでの考察にとって重要なのは、こうした幾何学をめぐる思索の過程で提出されている「標準直観(Normalanschauungen)」(6)という語である。それは次のように説明されている。

 「標準直観とは、あらゆる経験の基準となり、それゆえ概念にもある包括性と個々の  表象が例外なく持つ何らかの規定性とをあわせ持った図形(…)のことである。じっさい標準直観は、現実の(7)表象としてあますところなく規定されており、そうした意味では、規定されていないままであるがゆえの普遍性を持つ余地はまったくないが、それにもかかわらず、やはり普遍的なのである。なぜなら、標準直観はそれぞれ、あらゆる個々の現象の原型(die bloßen Formen)(8)だからであり、つまりそうした諸原型は、それぞれが対応する実在的客観いっさいの原型として効力を持つからである。それゆえ、幾何学におけるこうした標準直観にも(…)プラトンがイデーについて言っていることが当てはまるであろう。曰く、二つの同じイデーは決して存在しえない、同じなら一つのものに他ならないだろうからである(9)」(W-7,62f.)。

 以上のテクストを、必要な他の箇所も参照しつつパラフレーズすれば、以下のようになろう。
 イデーと概念とは区別されなければならない(10)。このことは、学位論文ではさしあたり、「ファンタスマと概念は決して混同されてはならない」(W-7,51)という形で述べられている。ファンタスマは、直接の客観である身体に仲介されてはおらず、経験という全体に属する表象でもないが、それでも十全な、すなわち感性的現象として成立するのに必要な形式的側面と質料的側面とをあわせ持った、そのつどの表象である(Vgl.,ebd.)。一方概念は「表象の表象(die Vorstellungen von Vorstellungen)」(W-7,49)(11)であり、むろんそこから直観的表象は生じないが、むしろそうした無規定性(具体的な大きさや形や色などを持たないこと)ゆえに、複数の異なった表象を統括する普遍性を持つ(Vgl.,W-7,49f.)。
 さて、以上のことを念頭に置きつつ、標準直観としての図形の機能について考えてみる。
ある幾何学の問題を解くために、例えば直角三角形を思い浮かべたとしよう。そうした三角形は、一定の形や大きさや色といった規定性を有した表象としてある。したがって、それは概念とは異なり、「無規定性ゆえの普遍性」という意味での普遍性は持ちえない。しかし同時にその三角形は、あらゆる直角三角形に共通の性質を包括するという機能を持つ。私の念頭にある直角三角形によって証明された直角三角形に固有の性質は、他のあらゆる直角三角形にも当てはまる。こうした「包括性あるいは統括性としての普遍性」ゆえに、私の念頭にある直角三角形は、あらゆる直角三角形の原型(標準型)というステータスを有する。これが幾何学における標準直観としての図形の機能である。
 そして、こうした標準直観の「機能」は、幾何学という範囲を超えて表象一般に適用されれば、前節で検討したプラトン的イデーのそれとなる。右に引用した文の最後には次のような註がついている。

 「プラトン的イデーはおそらく、次のように記述してよかろう。イデーは標準直観と  して働くが、それは(…)形式的なものだけに有効であるにとどまらず、十全な表象の実質(Materie)にも有効であり、それゆえイデーは「表象である以上あますところなく規定されているが、しかし同時に、概念と同様、多くのものを統括し支える十全な表象」である。すなわちイデーは(…)概念の代表象(Repräsentanten)であるが、しかし〔統括性という点では〕概念に完全に相当するものである」(W-7,63)。

 標準直観としてのプラトン的イデーは「形式的なものだけに有効であるにとどまらず、十全な表象の実質にも有効である」と書いたときショーペンハウアーの念頭にあったのは、幾何学の範囲を超えてあらゆる表象に適用可能な標準直観の機能だったのではないか。あるいは、幾何学的標準直観は「あらゆる経験の基準となる」、と先の引用にある。こうした言い方がすでに、幾何学的標準直観からプラトン的イデーへの展開を示唆していると見ることができる(12)。
 このように、以上のテクストから読み取ることができるのは、ショーペンハウアーの言うプラトン的イデーが幾何学的標準直観をその原形としている可能性である。右に引用した註は、学位論文第二版においても、そのままの形で同じ部分に付けられている。このことは、幾何学的標準直観とプラトン的イデーとの密接な関係性についての洞察が終始一貫していた証左と言えよう。幾何学をめぐる思索がショーペンハウアーのイデー論形成の現場である可能性を呈示するという本節の目的は、以上で果たされたことになる。

結語
 ところで、すでに序でも触れておいたが、ショーペンハウアーが彼独自のイデー理解に到達するにあたっては、前節で検討した幾何学的標準直観を経由する道以外にも、いくつかの道が想定可能である(13)。それらの道の可能性を検討することは、ショーペンハウアーの哲学体系を理解する上で重要な視点を我々に開示することになろう。また最終的には、それらの道相互の連関が検討されなければならない。合わせて今後の課題としたい。
 なお、最後に一こと付言しておきたい。これまで一般に受け入れられてきたショーペンハウアー像は、おおよそ次のようなものであったと言ってよかろう。――ショーペンハウアーによれば、現象世界の背後には、盲目的で知性を持たない「意志」が控えているとされる。こうした意志は、カントにならって物自体とも呼ばれているが、要するに神から知性を抜き取った、非合理的で実体的な世界原因のようなものである。そしてどういうわけか、そうした非合理的な意志が表象という秩序を持った世界へと現象する、とされる。また、ショーペンハウアーは、そうした意志が否定されるのが解脱であると言うが、実体である意志が否定されるというのは矛盾である。一方、意志(自己保存の衝動)を生の根源とみなすその主張は、その後の心理学(フロイト)の先駆をなしているし、インド思想や仏教を本格的に自らの思想の内に取り込むことによって、その後のヨーロッパにおける東洋研究の原動力となった。――以上のような見方に基づいてショーペンハウアーは、時おり評価され、しばしば批判されてきた。ヴィンデルバントがショーペンハウアーの哲学を「色とりどりのモザイク」と評したことは、つとに有名である。
 しかし、本発表で検討したイデー理解、物自体理解、およびそうした理解に到達するまでのショーペンハウアーの思索の過程を考慮すれば、従来のショーペンハウアー像が無条件に受け入れられてよいものではないということは明らかである。実体的対象を措定せずに世界の在り様を描き出そうと努力したショーペンハウアーの思索と、「非合理的実体としての意志」という考えは、いかにも不似合いである。むしろ、イデー論を展開する過程で提出されたショーペンハウアーの物自体理解を手掛かりとして、彼の意志論もあらためて検討されるべきである(14)。その意味で、イデー論こそ、ショーペンハウアーの哲学体系を整合的に理解するための要である、と筆者は考えている。

〔註〕
 Arthur Schopenhauer Sämtliche Werke, Herausgegeben von Arthur Hübscher, Brockhaus, Wiesbaden.からの引用・参照の際は、略号Wの後に巻数および頁数を記す。
 Arthur Schopenhauer, Der handschriftliche Nachlaß, Herausgegeben von Arthur Hübscher, Deutscher Taschenbuch Verlag, München.からの引用・参照の際は、略号Nの後に巻数および頁数を記す。
 なお、引用内の〔 〕は筆者による補足である。 

(1)拙論「直接表象と全体表象――『充足根拠律の根の四側面について』初版第一九節・第二〇節をめぐって――」、日本ショーペンハウアー協会編『ショーペンハウアー研究』第3号所収、一九九七年、四九頁参照。
(2)しばしば『充足根拠律の四つの根について』と訳されるショーペンハウアーの学位論文のタイトルをこのように訳すことに関しては、前掲拙論、五〇頁、註2を参照のこと。
 なお、この論文にはあと二つの版がある。大幅に加筆され、頁数が倍近くにまで増えた改訂版(一八四七年)と、それにさらに加筆したものをフラウエンシュテットが出版した版(一八六四年)である。現行の全集では三つ目の版が採用されている。本稿ではこの版を、特に初版と区別する必要がある場合には、便宜上「第二版」と呼ぶことにする。
(3)ただしこの命題は、客観が主観によって制約されているということのみを言い表わすだけで、同時に主観も客観によって制約されているということを意味してはいないという点で不十分である、とショーペンハウアー自身が述べている(Vgl.,W-3,17)。あくまでも主観と客観は相互依存的、あるいは相対的(Vgl.,W-2,39)な存在である。
(4)鎌田康男「若きショーペンハウアーにおける「表象としての世界」の構想――ショーペンハウアー研究の新視角を求めて(第一部)――」、『武蔵大学人文学会雑誌』第19巻 第3・4号所収、一九八八年、五七頁参照。
(5)同右、六〇頁。
(6)Normalanschauungenは様々に訳されている。景山哲雄は「規範直観」(ショペンハウエル『充足根拠の原理』、大雄閣、一九二四年、四一三頁)と、増富平蔵は「範式的直観」(ショーペンハウエル『因果論』、一九二六年、二三二頁)と、石井正・石井立は「正常規準直観」(ショーペンハウエル『根拠の原理』、創元社、一九四九年、二二八頁)と、生松敬三は「規範的直観」(『ショーペンハウアー全集』1、白水社、一九七二年、一七六頁)と、それぞれ訳している。また、英訳ではペイネがnormal intuitionsと訳しているが(On The fourfold Root of the Principle of Sufficient reason, Translated by E.F.J.Payne, Open Court, La Salle, 1974, p.198)、ホワイトはnormal intuitions (or perceptions)という訳は誤解を招く可能性があるとして、ideal particularsと訳している(Schopenhauer's Early Fourfold Root, Translated by F.C.White, Avebury, Aldershot, 1997, p.45,49)。確かにnormalが「正常な」の意で解されるとすれば、それは(本論での以下の論述から明らかとなるように)ショーペンハウアーの言わんとすることからずれることになる。「標準直観」という訳は、鎌田康男、前掲論文、六一頁による。イデーとは典型であるというショーペンハウアー言い方を考慮すれば、この訳が妥当であろう。
(7)この「現実の(wirklich)」という形容詞は、第二版では「直観的な(anschaulich)」(W-1,I.134)と書き換えられている。標準直観であるイデーはファンタスマであるが、それを「現実の」と形容すると、個々の「実在的な(real)」客観との区別が表現上曖昧になり、適切でない、との判断が働き、こうした書き換えが生じたと推察される。
(8)イデーは『意志と表象としての世界』では、「万物の原型(die Urformen aller Dinge)」(W-2,202)と呼ばれている。その点と意味の明瞭さとを考慮して、ここではdie bloßen Formenをあえて「原型」と訳した。
(9)このことは『意志と表象としての世界』では、イデーには数多性(Vielheit)はない、と表現されている(Vgl.,W-2,200)。
(10)イデーと概念との区別という問題は、「芸術としての哲学」と「学としての哲学」という、ショーペンハウアーにおける二つの哲学概念の問題と相俟って、重要な論点を形成している(Vgl.,N-1.115ff.)。次のような激しいカント批判も、そうした背景を抜きにしては十分に理解できないであろう。

 「カントは理性のつくるこの抽象の産物〔概念〕を言い表わすのに、すでにプラトンが所有権を手に入れ、この上なく有効に用いていたあの言葉〔イデー〕を、不法かつ不適切に乱用した」(W-2,154)。

 この点に関する詳細な検討は別稿に譲らざるをえないが、「芸術としての哲学」と「学としての哲学」に関しては、以下の拙論で簡単な説明を施してある。「同情(共苦)の倫理学〜ショーペンハウアー〜」、北村浩一郎編『ほんもの探しの旅〜哲学者たちが求めてきたもの〜』所収、めいけい出版、一九九七年、一一二頁参照。
(11)第二版では「表象の表象」は「表象からの表象(Vorstellungen aus Vorstellungen)」(W-1,I.98)と言い直され、その抽象性がより強調されている。
(12)以上のようなショーペンハウアーのイデー理解は、藤沢令夫氏のイデア論解釈に基づいて判断すると、少なくとも、個々の対象の認識を成立させる標準というステータスを有するという基本的な枠組みの点で、プラトンの真意に沿ったものだと言うことができる。従来のイデア論解釈を徹底的に批判する藤沢氏によれば、プラトンの言う「イデアとは、それぞれの感覚(知覚)的判別の成立にあたって働く規範ないし規準として、その不可欠の成立根拠なのである」(藤沢令夫『プラトンの哲学』、岩波書店、一九九八年、九八頁)。付言すれば、藤沢氏は次のようにも述べている。「何らかのかたちでこのような原理に想到しない、あるいはそれを否定するような哲学原理は、そのことだけで、分析の不足と考察の不徹底と、総じてわれわれの生と経験にとっての意味の稀薄さを、露呈しているというべきだろう」(同、一〇一頁)。
(13)鎌田氏は、カントの『判断力批判』における「美的標準イデー」、あるいはゲーテの「原現象」との関連を、残りの道の可能性として指摘している(鎌田康男、前掲論文、六一頁以下参照)。
(14)以下の拙論は、そうした立場から検討された場合にショーペンハウアーの意志論はどのように読めるのか、に関する筆者の見解を含んでいる。「意志の哲学――西田とショーペンハウアーの間――」、上智大学哲学会編『哲学論集』第28号所収、一九九九年、四〇頁以下参照。

なお本稿は、日本ショーペンハウアー協会第11回全国大会(一九九八年一〇月、於 東京都立大学)においてなされた口頭発表の原稿に加筆したものである。