パルジファル ― 近代市民社会の中でのミットライト

鎌田 康男  >>> PDF形式(138KB)保存は右クリック

目次
 1. はじめに ― 「同苦によって知を得る純粋な愚か者」
 2. 反・同苦としてのクリングゾルとそのユダヤ性
 3. ユダヤ人、それは私だ − 近代市民の醜さの投影としてのユダヤ人
 4. ワーグナーのユダヤ性
 5. 近代利益社会の別名としてのユダヤ性
 6. 十九世紀哲学におけるユダヤ性
 7. 同苦によって知を得る・・・
 8. 欲求充足のモノカルチャー ― 大衆消費社会の道具としての性
 9. 「アンフォルタス!」 − 同苦と意志の否定
10. おわりに ― 共同性への問いとしてのパルジファル

 1. はじめに ― 「同苦によって知を得る純粋な愚か者」 >>>目次
 同苦(共苦、ミットライト)註1 は、ワーグナーの最後の作品『パルジファル』を導く主要理念である。同時に、この同苦の思想の中に、晩年のワーグナーにおけるショーペンハウアー哲学の影響がもっとも顕著に認められる。その思想的な重要性にもかかわらず、ワーグナーにおいては、同苦という言葉の意味するところは容易には捉えられない。とくに芸術作品としての『パルジファル』では同苦が概念的にではなく、象徴的に表現されているために、解釈の困難が伴う。要所要所で繰り返される「同苦によって知を得る純粋な愚か者(durch Mitleid wissend reiner Tor)」という表現は、パルジファルの本質にかかわるものでありながら、概念的な規定を逃れ去るように思える。「同苦とは何か」という問いに真っ正面から答えを与えようとしても、そこには、見つめるものをその瞬間に石化してしまう「象徴」という怪物が立ちはだかっている。
 それにもかかわらず、否、その困難の故にこそ、私たち近代市民社会の思索者は、「同苦」の意味を問わずにおられない。本稿においては、この矛盾に直面して「同苦」の概念に一旦背を向け、その対極となるものに着目しつつ、「同苦は何ではないのか」という問いを手がかりに後ろ向きに進むことによって、同苦の本質に肉迫しようと試みる。

 2. 反・同苦としてのクリングゾルとそのユダヤ性 >>>目次
 聖杯騎士の王となるべきパルジファルの対極は、異教の魔法を使うクリングゾル(クリンショル)である。クリングゾルはハンガリーの王としてワルトブルクの歌合戦に登場し、チューリンゲンの聖エリザベートの誕生までも予言した知恵者というもうひとつの顔を持っている。ひとびとはその知恵を、当時キリスト教圏を凌ぐ東方、ことにイスラム文化に結びつけつつ畏れたのであろう。そのクリングゾルは、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルチヴァール』註2 では魔法の城によってアーサー王の円卓騎士達=ヨーロッパ・キリスト教世界を脅かす闇の力として描かれる。(ただし、魔法の城におもむくのはパルチヴァールではなくガーヴァーンである。)これに、聖杯伝説においてサー・ガラハットが解放する乙女たちの城や、ハルトマン・フォン・アウエの『エーレク』註3 に描かれる「宮廷の喜び」の外部と隔絶した城のイメージ、さらに乙女に変身した悪魔の抗しがたい誘惑をサー・パーシヴァルやサー・ボールスがぎりぎりのところではねのけ、その瞬間に魔法の空間が瓦解する、という聖杯探求物語に好んで取り上げられるモティーフをクンドリの誘惑の場面に組み合わせることで、ワーグナー版パルジファルの魔法の城が成立している。
 クリングゾルの魔法の由来する異教の国がアラビアであるということに、キリスト教文化とイスラム教文化との対峙という歴史的事実以上のものを見る必要はないだろう。同じくキリスト教との歴史的な緊張関係にあったユダヤ人でもよかったのだ。しかし、ワーグナーは、パルジファル作曲当時すでに反ユダヤ主義者の嫌疑がかけられ、パトロンのバイエルン王ルードヴィヒ二世(メルヘン王)とも摩擦が生じるようになっていただけに、あえてユダヤ人を名指すことを避け、代わりに漠然としたアラビアという名称を使ったとも考えられる。実際、アラビアの地を駆けめぐって不治の傷に苦しむアンフォルタスのために薬草を探してくるクンドリを、ワーグナーはヘロディアス、つまり永遠のユダヤ人(アハスヴェル)の女性版と同一視している。更につけくわえるなら、クリングゾルにクンドリを「原悪魔(Urteufelin)」、「地獄のバラ」とよばせているところは、悪魔が騎士を少女の姿で誘惑するという上記アーサー王伝説との連続性を意識したものであろう。註4 
 ただし、ここから、キリスト教文化、ないしドイツ文化に特有の人種差別主義と反ユダヤ主義を取り出してきて、ワーグナーをナチズムの先駆者として攻撃するのは短絡にすぎる。重要なのは、なぜここで、ユダヤ人が悪役に回されているのか、という問いであり、更にユダヤ人という名前にワーグナーはどのような意味を付与しているのか、という問いである。そのような意味づけが歴史的・事実的には不当なものであっても、その不当なユダヤ人観の内容を明らかにしなければ、ワーグナーに内容空虚な反ユダヤ主義というラベルを貼るだけに終わる。それはかつての不幸な反ユダヤ主義と同じ低次の感情レベルで、反ユダヤ主義に対する魔女裁判の嵐を引き起こすだけである。ワーグナー自身はその不当なユダヤ人観によって何を表現しようとしていたのかが示されるときにはじめて、そのようにして得られるユダヤ人の特徴との対比において、パルジファルの意味が、そして「同苦によって知を得る純粋な愚か者」の意味がより明確になるはずである。

 3. ユダヤ人、それは私だ − 近代市民の醜さの投影としてのユダヤ人 >>>目次
 ワーグナーのユダヤ人像は決してワーグナー個人の好き嫌いにのみかかわる問題ではない。彼のユダヤ人観はむしろ、十九世紀ヨーロッパの標準的なユダヤ人像であったとさえいえる。それは、長い歴史を通して培われ、一つの文化(キリスト教文化)において共有された価値観に逆らい、みずからの欲求を満たすために、手段を選ばずに自分の立てた目標を実現しようとする利己主義者のイメージである。そのようなユダヤ人観は、ユダヤ人を身勝手で醜い守銭奴、我欲集団であると決めつけている。
 その背景にあるのは、近代市民社会の勃興とともに、都市部を中心にユダヤ人の社会進出が目立つようになったことである。ベルリンのメンデルスゾーン一族は実業界において指導的な役割を確立したにとどまらず、カントと論争をした哲学者のモーゼス・メンデルスゾーン、音楽家のフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディなど、文化面でも卓越した人材を産みだした。『音楽におけるユダヤ性』(1850)註5 においてワーグナーは、音楽家メンデルスゾーンを名指しで攻撃している。
 近代市民の特徴は、既成の価値基準を乗り越え、さまざまな困難に打ち克って、自分たちの正しいと信ずる道を進む強い意志であった。それは哲学的には、理性的な現実理解に基づく意志の自律(autonomy)によって表現され、カントからドイツ観念論へという流れによって代表された。また政治的には、旧体制の崩壊、フランス革命、ナポレオン支配、諸国民戦争と展開する歴史の歩みの中で、民族の自治(autonomy)という理念に結晶していった。経済的には、産業革命を背景に、それまでの閉鎖的な同業者組合を解体しつつ、常に新しい生産方法を産みだし、あらたな製品を開発し、またそのような生き方にふさわしい新しい社会秩序=自由主義的市民社会を構築することが求められた。いずれにせよ、自分(たち)の生き方は自分(たち)で決める、という主体性の立場であり、それまでの因習から解放するために人々は理性に依拠し、みずからを合理的に思考・行為する近代市民として鍛え上げていった。このような反伝統主義者としての近代市民という基準に照らしてみれば、本来帰属していたユダヤ教を離れてキリスト教に改心することでヨーロッパ社会の伝統的価値を共有しようとする自由主義的なユダヤ人は、その意図とは裏腹に、根源において反伝統主義者であり、ヨーロッパ系市民にもまして近代市民的であったといえる。キリスト教を信じる市民にとっては、そのような規模で自己の世界観をくつがえすような徹底した伝統破壊は困難であり註6 、その意味でも自由主義ユダヤ人の革新性が社会的成功を収めるとともに、羨望、嫉妬、さらには反ユダヤ人感情へと高まっていったのである。この自由主義的ユダヤ人にイエス・キリストを十字架に架けたユダヤ人と歴史上のディアスポラ・ユダヤ人のイメージを重ねつつ、近代市民社会の自己矛盾をユダヤ人へ転嫁するところに、近代における反ユダヤ主義のエネルギー源があったといってよい。
 ワーグナーの『音楽におけるユダヤ性』におけるユダヤ人理解はまさに上のことを例証する。彼は「故郷の大地を失い、一族が四散して根無し草の状態のまま、そうした共同体の外側でエホバを守って孤独に生きてきたユダヤ人・・・この不幸な故郷喪失者たち」註7 を次のように評価する。「世界の現状を直視してみれば、実際のところユダヤ人の地位は、もう解放を必要とするどころの話ではない。彼らこそが支配者であり、金力の前に人間のあらゆるいとなみが膝を屈する限り、ユダヤ人の支配は続くであろう。」註8 

 4. ワーグナーのユダヤ性 >>>目次
 ワーグナーが「ユダヤ人の血」をひいているかどうか、というような問題は瑣末である。重要なのは、ワーグナー自身がまぎれもなく(ワーグナー自身およびその時代が不当にも理解するところの)「ユダヤ人の精神」の体現者である、ということなのだ。
 さきに拙論『さまよえるワーグナー』註9 において、さまよえるオランダ人とはワーグナー自身のことであると論じたが、その限りでワーグナーはまさしく永遠のユダヤ人でもある。そのことをニーチェは的確に見ていた。「永遠のユダヤ人は、女が惚れて自分のものにしてしまったら、どうなるのだ。それは簡単なこと、そのときにユダヤ人は永遠ではなくなるのさ。結婚し、われわれとは関係がなくなるのだ。・・・現実的な言い方をすれば、女は芸術家や天才(永遠のユダヤ人とは彼らのことなのだ)にとって危険なのだ。惚れる女は、ユダヤ人をだめにする。」註10 ここでニーチェが「天才芸術家」ワーグナーと永遠のユダヤ人を同一視していることは明らかである。永遠のユダヤ人とは、まさに自由へと呪われ、故郷の大地を失い、文化的根無し草として伝統的共同体に背を向け、一八四八年のドレスデン蜂起に加わった革命家ワーグナーの別名といってよい。それゆえに、クリングゾルのユダヤ性もまさに同じ地平で解釈すべきであり、浅薄な反ユダヤ主義(アンチセミティズム)批判で終わらせてはならないのだ。クリングゾルは、信仰と同苦の共同性の中で自らの人格と知とを育てるのではなく、自己自身に閉じこもり、共同態から隔絶した独りよがりの中で、自力で救済にふさわしいものとなろうとした。自らの手による去勢は、自らの意志の否定さえも自らの意志によって行うことによって、結果的に自己の意志を強化することになるという近代市民の自己撞着=ユダヤ性を象徴する。救済を妨げているのは、救済への意志そのものなのだ。その自己救済への意志は現代では、政策、マネージメント、ソーシャル・テクノロジーなどの名による近代市民社会の自己操作メカニズムに引き継がれている。

 5. 近代利益社会の別名としてのユダヤ性 >>>目次
 近代市民性は、共同性のセンス(共通感覚)を失い、ただ自己の欲求充足と目標達成に沈潜し、またそのために他の人間を手段として利用し尽くす悪魔的な自己中心主義の頂点において、儲け至上主義を道徳的徳性へと捏造した。ワーグナーは、『汝自身を知れ』という意味深長なタイトルの論文で、ユダヤ人について次のように述べている。「すべての禍根となるニーベルンクの指輪は一種の有価証券のようなもので、妖怪じみた世界支配者の不気味なイメージを仕上げたものといってよい。事実、金銭支配は絶え間なく進歩する文明の担い手によって、精神的な、それどころか道徳的な力と見なされている。彼らに言わせれば、『信用』、言い換えれば詐欺や損失に対して、この上なく周到に考え抜かれた保証を行うことによって維持されている人間相互間の誠意というフィクションが、失われた信仰の埋め合わせをしているのである。そうした信用の恩恵のもとでどんなことが起こっているかを私たちは現に見聞しているのだが、そのことについてユダヤ人にだけ責任を押しつけようとする傾向が見られる。確かにユダヤ人は、私たちが能なしである分野において達人である。もっとも無から金銭を産みだす技を発明したのは私たちの文化である。」註11 このような近代市民としてのワーグナーの自己批判を背景としてのみ、反ユダヤ主義的と称される問題の個所の意味が明らかになる。「私たちが目の当たりにしているのは利害の抗争なのだが、その利害の対象はといえば互いに抗争している諸政党にとって低次元の、まさに高潔とはいえない代物である。だが利害追求のためにもっとも強力に、ということはなりふり構わず組織された政党が勝利を勝ち得るのは明白である・・・それにつけても狂気じみた政党間の抗争の中で猛り狂っている者たちを虜にしているデーモンが、時と所を問わず私たちのもとに隠れ家を見出せなくなれば、その時初めてユダヤ人も存在しなくなるだろう。」註12 つまりここでは、われわれ近代市民の汚点である自己中心主義が、「近代市民社会におけるユダヤ性」という記号に託されている。物議をかもすことの多い「されど心得よ、汝らに重くのしかかる呪いから解き放たれる道はただ一つのみ、と!さまよえるユダヤ人の解放とは ― 亡びゆくことなり」註13 という箇所が指示するのは、近代市民を体現する私たちの内なるユダヤ性の死によって開かれる人類の再生 − キリスト教的に表現するなら、肉に生きる古き人として死に、霊に生きる新しき人として生まれる − であり、一民族の撲滅と読むことはあまりに浅薄である。同時に、戦後のナチズム評価という、ヨーロッパにおいてはきわめて微妙で難しい問題状況を考慮した上で、日本の読者にはくどいようであるが改めて確認しておこう − そのようなワーグナーの文化史的な研究によってワーグナーの思想の中核が見届けられたとしても、彼の言動によって結果的に産み出された反ユダヤ的要素、および反ユダヤ主義の悲劇までもが正当化されるものでは断じてない、と。むしろアーリア純血主義者とヨーロッパ中心主義者(および日本を含むヨーロッパ以外の追随者)の中にこそ、彼らによって偽造されたユダヤ性、すなわち近代市民の自己中心性の純血が保たれているのである。

 6. 十九世紀哲学におけるユダヤ性 >>>目次
 これまでに、「ユダヤ人」とは、近代市民の自己中心主義の別名であるという解釈はワーグナーのユダヤ人観にのみ妥当するものではなく、一般的に十九世紀ヨーロッパのユダヤ人像に対応するものであることを、ワーグナー自身の引用を中心に示したが、最後に、同じ主張をショーペンハウアーとマルクスという二人の哲学者を例にとって確認しておこう。
 ショーペンハウアーによれば、「ユダヤ教が要求するのはむしろ、人間は道徳的零としてこの世に生まれ、今や考えることのできない『無差別の自由決定(liberi arbitrii indiferentiae)』によって、従って理性的熟慮によって、自分が天使か、あるいは悪魔か、またはそのほかたとえば両者のあいだにあるものか、そのいずれであろうとするかをみずから決定するということである。」註14 
 これはまさしく、個の自己決定を身上として他のあらゆるする要因を排除しようとする、近代市民の自己中心的あり方そのものへの批判である。それゆえにショーペンハウアーは、共同性へのセンスを持たない自己中心的なあり方を「生への盲目な意志」と表現し、真の道徳性を、「同苦」において発現する意志の否定にもとめたのであった。マルクスもまた、ユダヤ人に投影された近代市民社会の原理を経済の視点からきわめて的確に述べている。
「ユダヤ教の現世的基礎は何か?実際的な欲求、私利である。ユダヤ人の世俗的な祭祀は何か?あくどい商売である。彼の世俗的な神は何か?貨幣である。」註15 「従ってわれわれはユダヤ教の中に、普遍的な現代的反社会的要素を認める。」註16 「市民社会はそれ自身の内蔵から、絶えずユダヤ人を生み出すのだ。・・・実際的な欲求、利己主義は市民社会の原理なのであ(る)・・・」註17 

 7. 同苦によって知を得る・・・ >>>目次
 これまでの叙述によって、ユダヤ人が近代市民の自己中心性の別名であることを明らかにしたことから、ユダヤ人の対立概念としてのパルジファルは当然近代市民の自己中心性の対立者、救済者として解釈されなければならない。
 クリングゾルのユダヤ性の本質は、共同性の破壊をものともしない近代的市民の飽くなき自己中心主義である。これに対して、真の知恵は自己中心主義からの解放と環境世界への配慮によって生じる。それは、中世の用語を用いるなら、高慢(superbia)から節度・中庸(moderatio, Maß)への道程であり、その道をアーサー王の円卓騎士たちはたどって一人前の騎士へと成長していったのである。節度とは、共同性への畏敬と誠実(verecundia et honestas)であるとされた。節度を徳の核心とするのは、パルジファルの聖杯探求を含むアーサー王伝説からスコラ神学徳論にいたるまで、中世をつらぬく普遍的な倫理観であった。そこには、古代ギリシャ、ことにアリストテレス以来の中庸(μεσοτης)の徳と、神の定めたもうた普遍的な秩序に逆らう自己中心主義を罪(αμαρτια)の根源とする(本来の)ユダヤ的人間観とが融合している。ヨーロッパ中世キリスト教においては自己中心主義の否定はさらに、神自身によって模範として示された神の自己否定(神の同苦としてのキリストの受難)へと先鋭化された。晩年のワーグナーは、そのようなキリスト教の救済の根本理念が忘却された結果、自己中心的・「ユダヤ的」な近代市民社会が生まれたと考え、その理念の復活=人類の再生=救済者の救済註18 を探求したのである。
「すべての信者がわが身に経験した生きる意志の反転という最大の奇蹟は、キリストの出現の結果生じたのであったが、このことが公然化したとき、その奇蹟のうちには、救済の告知者に備わる神性というもう一つの奇蹟があらかじめ含まれていたのである。またそれによって、神的なるものの形姿も擬人化的方法を通じておのずから示されたのである。その形姿というのは、十字架にかけられ、苦痛に責め苛まれる肉体、共苦に満ちあふれたすべての愛の至高の権化と化した肉体であった。人々の心を否応なしに捉えて利己的意志に打ち克つように仕向け、至高の共苦へ、苦悩の賛美へ、そしてまねびへと誘うのは、単なる象徴ではなく、形象であり、生々しい模像なのである。」註19 
 共同性への畏敬に基づく真の知恵は、絶対的に自己完結した自我の主体性の中でではなく、開かれた共同性の中で異質なもの、他者のもののうちもっとも受容したくないもの(他者の苦)を受容することによって完成する。それが「同苦によって知る者となる(durch Mitleid wissend)」の意味である。
 この文脈においては、「同苦によって知を獲得する純粋な愚か者」とは、近代市民社会が理想としたような仕方で、自己の欲求充足と目標達成を効率化すべく、自己意識のアイデンティティを確立し、それによって知のシステムを操作・制御する意志主体の対極である。共同性(愛)によって人として育った者、あるいは人間の意味を、目的合理性に基づき経済的利益へと矮小化された欲求充足にではなく、全人格的な愛の共同性に見いだす者である。かれは利己的な欲求充足をめぐる利害の抗争を人間の行動の基盤とせず、その意味で、現代の利己的個人の目には世間知らずの愚か者としか映らないのである。何故なら、利己的個人は、人間は誰でも自己の欲求充足をめざすことにおいて共通するがゆえに、人間は自己の欲求充足を目指して生きるのは当然であり、自分ももちろんその権利があるのさ、と言って「めくばせ」しながら、望ましいもの(善)の多様性を欲求充足のモノカルチャーへと矮小化する末人だからである。収量の増加だけを目標として行われる単一栽培農業や、国際的に競争力のある生産部門だけを官民一体で育成してきた日本の経済政策などは、文化としてのモノカルチャーを反復する営みにすぎない。それは、大衆を果てしのない消費へと条件づけることによって、大量生産・大量広告・大量消費という物流の効率化にはふさわしいが、価値の多様な体系が織り成す社会的・文化的・生態学的安定性を脅かすという点できわめて危ういものであることを、現代の私たちは身をもって知らされている。

 8. 欲求充足のモノカルチャー ― 大衆消費社会註20 の道具としての性 >>>目次
 個々人が自分自身の人生を主体的・自律的に実現してゆく使命を帯びているのだという進歩思想に支えられた近代市民社会は、パルジファルが書かれる頃、十九世紀末に近づくとその根幹が揺らぎ、自由市民は受動的な消費大衆へと頽落していった。高度に複雑化する現実世界は一般人の理解力の限界を超える。人々は一方では主体的・自律的に考え、行動するに十分な知力と能力を持たず、他方では自分が自由な意志の主体であるという夢を捨てることもできない。その結果、大衆は安易に消費できるようにマスメディアによってダイジェスト化され、簡素化された、その意味で現実とは異なる意味づけを与えられた疑似環境・バーチャル世界に逃避する。大衆は「わかりやすい」ステレオタイプ化された情報や刺激を求め、それらの消費を繰り返すことで自己の自由を行使していると思いこむように条件付けられてゆく。例えば現代において、大量に生産され、提供され、消費されていく音楽を観察すると、このことがよく分かる。街角に、店舗に、ファミリーレストランに絶えず鳴り続ける音楽は、自分から欲しない刺激をたえず外界から受け続けることに慣れ、それなしには不安を感じるようなメンタリティーを教え込む。またそのように訓練された大衆は、絶えず音楽の鳴り続ける環境を期待する。いったんスイッチを入れれば次から次へと曲が流しこまれるウォークマン文化においては、一方でヘッドフォーンをかぶることで環境世界とのコミュニケーション、特に複雑な対人関係から逃避しつつ、同時にヘッドフォーンから間断なく配給される、聞き慣れたポップスの刺激を従順に受容するメンタリティーへと調教され、目前に漂う大衆消費財によって刹那の欲求充足を繰り返してゆく「理想的消費大衆」を作り上げる。こうしたメンタリティーは、今や日常生活のあらゆる場面を支配している。全面的なマインドコントロールの頂点に立つのが、マスメディアとしてのテレビ、ことにコマーシャルである。コマーシャルは、単に個々の製品に対する購買欲求をおこさせるだけではない。受動的に見つづけることによって、消費へとつながる自己中心的・受動的な欲求姿勢 ― 何かが欲しい、何かが起こってほしい、何かをして欲しい、という姿勢 ― と、現状に対する漠然とした不満を育てる。「何」がはっきりしないから、何によっても不満が解消されることはなく、それが消費欲求の無限連鎖を強化する。
 この大衆消費社会化と表裏一体の関係で進んできたのが、現代における性の解放である。人々は週刊誌などに描かれるあからさまな性描写だけでなく、化粧品から自動車に至るさまざまな消費財のコマーシャルを通して暗示され続けるセックスを受容することによって、性的な刺激への一般的な欲求と期待とを準備する。性的欲求はあらゆる人間を直接に支配するがゆえに、社会全般における性的刺激への欲求度を高めることは、同様に、刺激一般への欲求と期待を拡大再生産することによって機能する大衆消費の構造を社会の底辺から強化・支援することになる。まさにそのような大衆消費社会に対する貢献のゆえに、かつては社会的な不安と秩序の混乱とをもたらすものとして警戒され、抑圧され、弾圧された性が、現代ではむしろ、青少年における性の解放や既婚者の不倫などをテーマとしつつ、大衆消費経済の発展に貢献するファクターとして積極的に広告やテレビドラマをはじめとする大衆文化に許容され、歓迎されるようになった。実際、歌謡曲の歌詞に性の直接的表現が急増する七十年代は、大衆消費に支えられた高度経済成長の開始する時期と一致するのである。その意味で現代における性の解放は、表現の自由や人間性の解放とは無関係である。むしろヴェーヌスベルクの、あるいは魔法の城の集合的色情狂状態(エロトマニー)を現出させることによって、人間を共同性から隔離・孤独化し、自己の欲求の自己増殖構造に封じ込めることによって物流を活性化するのが目的である。

 9. 「アンフォルタス!」 − 同苦と意志の否定 >>>目次
 この地点からパルジファルを逆照射することによって、パルジファルの変貌を表す言葉「アンフォルタス!」註21 の意味が明らかになる。それは、クンドリの腕の中で共有不可能な性感覚が心身の全領域を呑みこもうとする瞬間に噴き上がる危機感 − この感覚の自己中心性がすべての共同性の意識を押しのけてゆくことへの危機感なのだ。クンドリの接吻は、感覚と思考と行為の自己中心性をパルジファルの中に封じ込めるものであり、同苦する救済者になるためにたどる通路を遮断するものである。扉が閉じようとする瞬間の危機一髪、ドアの隙間をすり抜けて脱出するように、パルジファルは胸を押さえて身を起こす。その危機感の生み出す緊張は、自己の性感覚の直接的確実性と対極のもの、自己から遠いもの、しかも自己の欲求の対象とならないもの − 他者の苦へと自らを突破し、これと同一化し、同苦する。同苦において、アンフォルタスがクンドリの腕の中で性感覚に沈潜し、接吻によって魂の平安=共同性への意識を失う瞬間の苦しみ、性感覚の自己中心性を封じ込んだまま鈍い音を立てて重いドアが閉まる瞬間の苦しみを、パルジファルは同苦する。血の流れ出るアンフォルタスの傷は、パルジファルの胸の痛みと同様、この魂の苦しみの単なる徴にすぎない。註22 
 上に述べた意味では、パルジファルの叫び「アンフォルタス!」は、心理的には十分に了解可能である。だが、そのようなパルジファルの態度をクンドリに対する態度として読み直すとき、ある種の内部矛盾に突き当たる。というのは、接吻ないし抱擁の状態から急に身を起こす、ないし立ち上がるパルジファルは、クンドリを突きはなす形にならざるを得ないように思われるからである。(実際の舞台演出においても、パルジファルが「アンフォルタス!」の直前にクンドリを突きはなすのが普通である。)その矛盾は、同苦と意志の否定のテーマに即して哲学的には次のように表現することができる − 意志の否定は結局それ自身が否定への意志という形で意志の肯定に終わるのではないか。しかし、ワーグナーがショーペンハウアーと共有する意志の否定は、強い意志によって意志自身を押さえ込むことではない。むしろ、そのような自己自身および他の存在に向けられた操作・支配への意志そのものの根底にある近代市民の自己中心主義(ユダヤ性)を鎮静することである。そのような意志の否定と同苦との表裏一体の関係をワーグナー自身も強く意識していることは、以下の諸点から明らかである。

(1) ワーグナーの論文著作から
 先に『芸術と宗教』から引用した箇所、「人々の心を否応なしに捉えて利己的意志に打ち克つように仕向け、至高の共苦へ、苦悩の賛美へ、そしてまねびへと誘うのは、単なる象徴ではなく、形象であり、生々しい模像なのである」註19 と同趣旨の主張が、次の箇所ではショーペンハウアー哲学と関係づけられている。
「この(ショーペンハウアーの=筆者註)哲学の結論は、世界の道徳的意義の承認であり、・・・共苦から芽生える愛、共苦をもって活動することにより我意を完全に克服する愛だけが人を救済するキリスト教的愛なのであって、信仰と希望はこの中におのずから完全に含まれている。」註23 

(2) 作品における表現
 ワーグナーの作品においては、「救済」は救済者の愛の死、すなわち救済者の意志の否定によってもたらされる。それは、さまよえるオランダ人にとってのゼンタであり、タンホイザーにとってのエリザベートである。これに対して、自分の意志で救済をつかみ取ろうとするもの、救済をつくりだそうとするものは、目的を達しない。それはオランダ人であり、タンホイザーである。ローマで罪の赦しを得られなかったタンホイザーは、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハに訴える ―
「どんな贖罪者も感じたことのないような
熱く燃える心で、私はローマへの道を急いだ。
 ・・・
私の傍に罪の重荷に苦しむ巡礼者が
いかにも苦しそうに道を歩む姿は、私にはあまりにも安易におもえた。
彼の足が野原の軟らかい土を歩むとき
私は裸足のままイバラや石を踏みしめた。」註24 
 しかし、共有された価値に逆らって自己自身の価値観を押し通す自己中心主義を脱却し、真の共同性を身につけることが巡礼の意味であることを、タンホイザーは悟るにいたらない。そのような独善的な救済への意志が、真の救済をもたらすべき意志の鎮静を阻んだのだった。同様にして、『パルジファル』においては、クリングゾルは自分の意志で救済を得ようとし、アンフォルタスは自分の意志で他者を救済しようとして、それぞれみずからの救済を失った。

(3) 「アンフォルタス!」における不整合の意義
 上のようにさまざまな視点から総合的に判断する限り、ワーグナーの意志の否定の思想はショーペンハウアーの意志の鎮静の思想に近いものであったとしても、パルジファルがクンドリの求愛を文字通りはねつけて「アンフォルタス!」と叫ぶ場面の不整合は残る。それは、意志を否定するのも結局意志であり、意志の鎮静は不可能なのではないかという近代市民の本質に由来する疑問である。その矛盾はどのようにして理解することができるのだろうか。
@アーサー王伝説との連続性
 外的には、パルジファルが由来するアーサー王伝説との精神的連続性を維持するために必要である、という理由が考えられる。実際ワーグナーはパルジファルの台本において、そのことを重視しているようである。註25 
 パルジファルが悪魔に変身した女性の誘惑をとっさのところで逃れるエピソードをクンドリの誘惑に重ねているために、アーサー王伝説との連続性を尊重してそのような劇的な形を採用した。同じく魔法の城を構成するエピソードを提供している『エーレク』の「宮廷の喜び」に登場するマーボナグリン註26 が自己の欲望の充足を阻んでくれる救済者を待っている、という筋立てをクンドリに活かすためにも、クンドリの意志に反する救済の強行=クンドリの求愛への拒絶が必要であった。
 逆に、円卓の騎士ランスロ(サー・ランスロット)が、いったんは愛を求める女性の願いに応じてベッドに身を横たえるが、それが彼の本意でないことを女性に少しずつ納得させてゆく、といった例もあるが註27 、実例も少ないし、(われわれ近代人の目には)劇的効果も劣る。
A近代舞台芸術の問題として
 近代市民の精神は、あらゆる出来事を自由意志に基づく行為とその帰結という語法に従って理解し、叙述しようとする。ゆえに近代舞台芸術も、さまざまな登場人物の意志の交錯による行為の集積としての「幕」(Akt)によって構成されなければならない。だが、行為の消滅をもたらす意志の鎮静を行為の集積によって表現することは自己矛盾にも等しい。たしかに、トリスタンとイゾルデの愛の死では、終幕で意志の鎮静という側面は表現できたものの、ミンネを通じての個人の自己中心主義から共同態に生きることのできる人間へ成長するという中世の動機が、男女の愛(性愛)のレベルで停止して、それ以上に進めなかったという困難が残る。『パルジファル』においてワーグナーは、『トリスタンとイゾルデ』で積み残された問題に取り組んだといえるのである。行為連鎖の地平で現実を理解する近代の舞台芸術において近代性を超えることの難しさは、初期ワーグナーではオランダ人を救済するゼンタの愛の死が、岸壁から身を投げるという意志的な行為によらざるをえなかったことにもあらわれている。この点では、タンホイザーにおけるエリザベートの愛の死の方が首尾一貫している。
 
(4) 「アンフォルタス!」の再検討
 しかし、上に述べた説明はどれも外的な説明にとどまり、ワーグナーの思想的核心に届かない。とするならば、「アンフォルタス!」という言葉とともにクンドリを「はねのける」という一見ごく自然な理解をもう一度検討する必要がありそうである。オリジナルには、「アンフォルタス!」の詞の前後に「クンドリを突きはなす」という指示はない。
 ここでパルジファルが意志の否定自身を意志し、クンドリをはねのけた、という解釈を取らないとどうなるのだろうか。ワーグナー自身のト書きでは、「パルジファルは、愕然とした様子で突然立ち上がる。まるで恐ろしく人が変わったようである。・・・」となっている。そのあとを歌詞から再構成してみると ― しばらくの間は、胸の痛み=アンフォルタスと苦痛を共有することの意味を理解しようとして、クンドリは眼中にない模様である。やがてパルジファルは、以前にアンフォルタスにあったときに、その苦しみの訳を尋ねなかったことを悔やみ、絶望して膝をつく。はじめは呆気にとられていたクンドリがパルジファルをなだめにかかるときになって、はじめてパルジファルの注意がクンドリに向かう。そして、アンフォルタスを堕落させたのがクンドリの接吻であると知って「パルジファルは次第に身を起こし、クンドリを押しのける」という順序になっている。そのように解釈するならば、「アンフォルタス!」の場面に、否定への意志=意志の肯定という逆説を読み込む必要はないようである。

10. おわりに ― 共同性への問いとしてのパルジファル >>>目次
 若い騎士が住み慣れた宮廷を離れ、さすらいながら個の自己中心主義と高慢さを克服し、共同態にふさわしい節度をもった騎士に成長して再び帰還する、という筋立ては、アーサー王伝説に繰り返し登場する主導動機といってよい。そもそも中世騎士文学に描かれるミンネの理想自身が、すべての人、ことに成長過程の若い男女に分け隔てなく与えられ、しかも強いインパクトをもった「性愛」を手引きに両性の畏敬の念を育て、これを跳躍台に、ナイーヴな自己中心主義から騎士共同態の作法の習熟へ向かわせるという社会化の機能をもっていたのである。そのような愛と成長の歴史は、人々の賞賛とあこがれの対象として語り継がれる。若いエーレクと妻エーニーテの放浪物語註28 はその代表例といってよい。これに対して、社会的な成長期・適齢期を迎える前の少年(とくに処女)の性交渉や、すでに一定の家族関係の中に生きる既婚者の不倫、高齢者の恋愛のように、そのような社会化の機能を果たさない性愛は、社会的安定を脅かす不道徳な行為として、多かれ少なかれ制限ないし抑圧された。現代の性愛が第八節で述べたように、性愛をバネとする社会化プロセスの枠外にある人々をターゲットとし、人と人の共同態から個人の感覚へと孤立させ、自己の欲求にのみ忠実な消費大衆を育成する手段となっているのとは対蹠的である。自由時間を持ち、小遣いやアルバイト収入を意のままにつぎ込める青少年、一定の経済的ゆとりを持ちながら一人で過ごすことの多い核家族の主婦、時間が十分にある裕福な高齢者などが、大衆消費社会にとって重要な経済的ファクターだからである。
 意志の自由の理念によって伝統的社会(旧体制)をうち破って成立した近代市民社会は、第三節「ユダヤ人、それは私だ − 近代市民の醜さの投影としてのユダヤ人」で述べたように、十九世紀にはいると、さまざまな社会的問題を生みだし、自己中心的な個人が自らの自己中心性を克服することが容易でないことを思い知らされるようになる。七年ごとに陸(共同態の安定を表す)に上がりつつ、再び嵐の海(伝統的価値の崩壊した不安定な状態を表す)に漕ぎ出すさまよえるオランダ人も、いったんワルトブルクに帰還しながら宮廷社会に順応できずに巡礼の旅に出てゆくタンホイザーも、自らの主体的意志によって自らの自己中心性を救済できない近代市民の運命を示している。だからこそ近代市民は、他者による救済を待たなければならない。救済への意志の自己矛盾という極限状態を表現するのが、クリングゾルであり、アンフォルタスである。騎士マーボナグリンの自己閉塞を再現するクンドリにおいても、救済はオランダ人やタンホイザーと同様、古き人に死ぬことによって成就するが、彼女について特徴的なのは、オランダ人やタンホイザーの場合とちがって、救済への意志さえも与えられないということである。彼女は、自らの救済者を誘惑することによって救済を阻むように定められている。クンドリの救済は、彼女の意志に反してその誘惑に陥らない者によってのみもたらされる。したがって、彼女の救済の場は、彼女が誘惑者として生きる魔法の城であり、贖罪者として生きる聖杯領では、いかなる努力も報われることがない。そのような逆説の重層構造にがんじがらめになって、自分で自分の救いに至る端緒さえ持たない ― 救済を求める意志すらもてないほどにマインドコントロールされていることにおいて、現代の消費大衆と酷似している。ワーグナーの臭覚は、大衆消費社会の到来を確実にかぎ分けていたと思われる。「ところが愚にもつかぬ新聞記者や三百代言が民衆に対し虚偽に満ちたおざなりを並べ立てると、民衆はそうした連中を自分たちの利益を守るリーダーに祭りあげてしまう。おまけにユダヤ人が証券取引場の紙製の鐘を打ち鳴らすと、民衆は自分たちのへそくりを注ぎ込んでしまい、その金を手にしたユダヤ人は一夜にして百万長者になるという寸法である。」註29 
 古き人に死ななければならないのは、救済される者だけではない。救済する者も他者の救済を意志する者として、つまり、近代市民性に死ぬことによって、他者の苦を共有できなければならない。そこに、さまよえるオランダ人の救済者ゼンタ、タンホイザーの救済者エリザベートの愛の死が設定されることになるのである。その死は、古き人の死、自己中心的な肉の人の死であり、それは近代人のユダヤ性の死を表現する。これに対して、母ヘルツェライデの計らいで、自己中心的な欲望に導かれて行動する近代市民の平均的な人格形成を受けなかったパルジファル ― 彼はイエス・キリストの模像であり、フォレスト・ガンプの原像である ― は、自己意識と目的合理的意識が形成されていないために、近代人の目から見る限りでは愚か者としか見えない。しかしそのために、パルジファルは、(古き人に)死ぬことなく、同苦と知に目覚めることによって愛の共同体を生きる救済者となったのである。
 自己中心的・操作万能的な偏狭さのゆえに生じた近代市民社会における共同性と愛の崩壊を、近代市民社会の運命として受けとめ、問題の所在をその文化的根底から正しく認識することが必要であり、めくらめっぽうに対処療法的な解決を求めて行為することは、逆に共同性と愛の崩壊を加速する危険がある。そのことに気づかせてくれるのが、意志の否定と表裏一体の「同苦」の思想である ― これが、パルジファルおよびその対概念であるユダヤ人を通してワーグナーが十九世紀末に向かって発信したメッセージであった。
 「舞台神聖祝典劇」パルジファルは、自律的な自己構築と存在構築を理想とする近代市民の自己表現としての芸術の概念を根底から覆す(近代市民にとっての)反・芸術たらんとする意図を持っており、その芸術理念の先駆性に関しては、他のワーグナー作品の追随を許さない。パルジファル作曲当時すでに、リンダーホーフに接するオーバーアマガウで定期的に上演されていた、「キリスト受難劇」 ― 正しくは「キリスト受苦劇」 ― がワーグナーの「舞台神聖祝典劇」の成立に何らかのヒントを与えたかもしれない。しかしその意図は、単なる過去への回帰ではなく、近代市民社会から大衆消費時代へと向かい始めた十九世紀末の問題に肉迫することにあった。ショーペンハウアーからワーグナーへと継承された同苦の思想は、近代市民社会の終焉期、現代の大衆消費社会に生きる私たちに自己反省と自己認識をもたらすという意味で、きわめて重要な役割を果たしうるであろう。


【註】
  1. Mitleidは、原語の含むさまざまな契機のどこを強調するかによって、同情、同苦、共苦などの訳語が充てられる。筆者個人は「同苦」を用いるが、邦訳文献で「共苦」が用いられている場合は、そのまま引用した。 >>>本文へ
  2. ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ『パルチヴァール』加倉井他訳(郁文堂)、293-330参照 >>>本文へ
  3. ハルトマン・フォン・アウエ『エーレク』平尾浩三訳、ハルトマン作品集(郁文堂)所収、とくに124-153ページ参照。この箇所は本稿においてもたびたび言及するので、あらすじを紹介しておこう ― 若いエーレクが妻エーニーテと昼夜を分かたず愛し合うあまり、騎士としての務めを怠ったことから、二人はアーサー王城から放浪の旅に出ることになる。そしてともにさまざまな苦難を乗りこえてゆく。旅も終わりに近づいた頃、エーレク一行は道を誤って、ブランディガーン城に至る。そこには勇猛な騎士マーボナグリンが、かつてのエーレクのように妻と二人だけの愛の世界に閉じこもっている。彼らを訪れるものは闖入者として騎士と戦わなければならない。負けて殺されれば、その妻は城に留めおかれる。こうしてすでに八十人の夫人が幽閉されている。しかし、騎士のこの行動の背景は、妻だけのために生きるという誓いをたてたことであり、そのためにあらゆる来訪者をうち殺さなければならない運命を背負ったのである。ただ彼自身を降参させる者が現れたときにのみ、そののろわしい誓いから(強制的に)救済されるのであった。マーボナグリンを破って呪いを解き、騎士夫婦と八十人の救済者となることによって、エーレク夫妻は自己のことばかりに関心を持つのではなく、共同体的センスを備えた節度ある騎士夫婦へと成長したことを示す。間もなく彼らはアーサー王城へ帰還する。 >>>本文へ
  4. ワーグナー『パルジファル』第二幕冒頭 >>>本文へ
  5. ワーグナー『音楽におけるユダヤ性』、ワーグナー著作集1(第三文明社)、59-99ページ >>>本文へ
  6. この近代市民が彼の生きる伝統社会との間で紡ぎ出す葛藤の中で、個々人が存在秩序の全体を操作することができないし、他方また伝統的社会秩序が個々人を支配することもできない、むしろ、世界はそれらの葛藤の紡ぎ出す悲劇である、と考えるロマン主義、更に悲劇自身を人間の力の充溢の表現として、もう一度わが手に取り戻そうとするニーチェの近代市民の極限形態も、このような文脈で理解されるであろう。 >>>本文へ
  7. ワーグナー『音楽におけるユダヤ性』、68ページ >>>本文へ
  8. 前掲書、64ページ >>>本文へ
  9. 『岡崎学園国際短期大学論集』No. 1 (1994年) 所収 >>>本文へ
  10. ニーチェ『ワーグナーの場合』、Der Fall Wagner, in Nietzsche: Werke in drei Bänden, München 1966 (Schlechta-Ausgabe), Bd. 2, S. 909(筆者訳) >>>本文へ
  11. ワーグナー『汝自身を知れ』、ワーグナー著作集5(第三文明社)、302ページ >>>本文へ
  12. 前掲書、311-311ページ >>>本文へ
  13. ワーグナー『音楽におけるユダヤ性』、90ページ >>>本文へ
  14. ショーペンハウアー『パレルガとパラリポメナ』ショーペンハウアー全集(白水社)・哲学小品集III、342ページ(倫理学のために) >>>本文へ
  15. マルクス『ユダヤ人問題によせて』岩波文庫白124-1、57ページ >>>本文へ
  16. 前掲書、58ページ >>>本文へ
  17. 前掲書、62ページ >>>本文へ
  18. パルジファル終結のテキスト:Erlösung dem Erlöser >>>本文へ
  19. ワーグナー『芸術と宗教』、ワーグナー著作集2(第三文明社)、200ページ >>>本文へ
  20. 大衆消費社会論については、本稿では詳説できないが、リップマン、マクルーハン、リースマン、ブーアスティン、ボードリヤールといった研究の系譜を参考としている。 >>>本文へ
  21. アンフォルタス!その傷、その傷だ!傷は私の心を焼く。おお、あの嘆き、あの嘆きだ、恐ろしい嘆きの声、あの声が私の心の奥から叫ぶ。おお、おお、哀れな人よ、そんなに苦しんで・・・(『パルジファル』第二幕) >>>本文へ
  22. ここでクンドリの誘惑の場面を、(後期)フロイト的な精神分析の一ケースとして解釈することは可能であるし、重要でもある。その場合、共同性の意識は超自我として解釈されることになる。しかし本稿では、パルジファルの持つ思想・社会史的な意義に焦点を合わせているので、精神分析的解釈には立ち入らない。 >>>本文へ
  23. ワーグナー『この認識は何の役に立つのか』、ワーグナー著作集3(第三文明社)、283ページ >>>本文へ
  24. ワーグナー『タンホイザー』(音楽之友社・名作オペラブックス16)、108ページ(筆者訳) >>>本文へ
  25. 本稿第二節「反・同苦としてのクリングゾルとそのユダヤ性」参照 >>>本文へ
  26. ハルトマン・フォン・アウエ『エーレク』、上掲箇所 >>>本文へ
  27. クレチアン・ド・トロワ『ランスロまたは荷車の騎士』、フランス中世文学集2(白水社)所収、26-32ページ >>>本文へ
  28. エーレクの物語、ことに「宮廷の喜び」のあらすじについては、註3参照 >>>本文へ
  29. ワーグナー『汝自身を知れ』、306ページ >>>本文へ





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